「軍用旅舎」と会津戦争

沼田の利根町に骨董品を買取に行ってきました。

「軍用旅舎」と書いてある看板を購入しました。

このお宅は旧家で、現在の主人の、お話しでは、

この看板は、会津戦争の時、官軍が会津藩を攻めるさい 司令官の人々を

宿泊させた時に作ったとのことです。その他の兵は、野宿でだったそうです。

なにげない素朴な看板ですが、日本の歴史が刻みこまれています。

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会津戦争と白虎隊                                                        戊辰戦争にあたって、薩摩藩・長州藩を中心に編成された新政府軍首脳にしてみれば、会津藩攻撃は松平容保に殺された志士たちの恨みを晴らす機会として位置づけることにもなった。東北諸藩の大名たちは、新政府軍が会津を攻めるのは必死とみて奥羽列藩同盟を結び、さらに、越後などの藩が加わって奥羽越列藩同盟となり、新政府軍と対立し、会津藩を支援することになった。1868年、松平容保は軍制改革に着手。藩士を年齢別に組織する4隊編成をつくる。
●玄武隊・50歳以上、●青龍隊36~49歳、●朱雀隊18~35歳、●白虎隊16~17歳の4隊である。このほかにも藩士以外の郷士から志あるものを募集し、全藩あげての抵抗戦の構えを組織した。しかし、流れは「官軍」としての新政府軍の側にあり、奥羽の関門ともいうべき白河城、さらに平城、二本松城、猪苗代城が次々と落とされ、いよいよ鶴ヶ城(若松城)が攻められる段となった。

白虎隊にも出撃命令が出て、新政府軍の会津城下への侵入を防ぐため戸ノ口原で戦い、敗れ、敗走中、20名の隊士がはぐれてしまった。これが「白虎隊の悲劇」につながる。城へ戻る道が新政府軍によって押さえられたため、飯盛山に出たところ、鶴ヶ城が焼けているのが見えた。これを落城と勘違いし、「城が落ちてしまった以上、生きていてもしかたがない」と、全員、そこで自害した。のち、一人が蘇生して、その状況が知られ、「白虎隊の悲劇」として語り伝えられることになった。じつは、このとき、鶴ヶ城は焼けておらず、城下に放たれた火による煙が城の上にたなびいていただけであった。結局籠城1ヵ月後,松平容保は降伏し、会津戦争は終わった。

                      史跡若松城跡より

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